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考 : THINK PHOTO Archive

視野心

これからはドキュメンタリーが通用しない時代が日本にも来る。ポップな時代性、アイコンと化すほど強烈な被写体、それに負けないだけの作家の明確なコンセプト。日本も、「写真は写真だ」とだけ言って通用する時代はおわった。表現の飽和、過度期_。しかしだからこそ紛れもなくチャンスは黄金色であり、無限の可能性は潜んでいる。それを開くことが出来るか否かは、どれだけ先を見れるか否かの問題でもある。

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写真行為は人の生き様と同じ生き物なのかもしれない

なぜ写真を撮るのか。そんな単純な作意にすら、明確な呈示も確立できないまま、ただこの数年間を写真とともに過ごしてきた。果たして写真行為とは?

他者の介入を経て成立する、写真。対外的であることでのみ、その存在理由を明らかにできる写真。まるでこれは、人のようである。自分だけでは存在することができない。人を知ることで自らも知ることができ、そうして自我を作り出す。ああ、言い得て妙。なるほど写真とは、人のように矛盾したモノであった。そして自我を対外性によって如何様にもメタモルフォーゼさせてしまう。絵以上に可能性を秘めているのは、それ自体がそもそも自我を持たないから、主観性と客観性の狭間にあるからなのかもしれない。だから答えが出ないのか。酔った勢いで書き始めた今回だが、意外とものすごい本質に触れてしまったような気がする。。。

振り返れば、写真との関係性とは常に自己との対峙を証明する過程に於いて築かれていた。ファインダーほど分かりやすい"目線としての自己"は他にはないと断言できるほど、写真とは目線であり、自分であった。僕は写真のことを視野心と書いていたが、それは無意識の本質を見抜いていたからなのかもしれない。今思えば、写真とは視野心である。どこまでも自我とは切り離すことの出来ないものなのだった。

いま、僕には撮りたいものがある。だがこれは、今撮ることが出来ずにいる。不思議なモノだが、本当に撮りたいと思うモノほど、撮っては勿体ない気がして、撮れなかったりする。どこまでも写真行為とは、写真行為でしかない。刹那の記録と刹那の記憶を天秤で量れば、そのどちらに愛はあるのだろうか。愛すべき本質とは果たしてどちらに傾きを置けば宜しいのだろうか。すべては自然のままに行為される。つまり、そこで腕が反射的に写真行為を促さない場合、それはそれとして故郷なのだろう。言い得て妙。写真行為とは、なすがままの欲求であるからして、そこに束縛や公式は存在しない。好きに撮ればいいじゃないか、撮りたいモノでもそれを撮るべきではないのなら撮らなければいいじゃないか。今、僕に欲しいのは、ちがった勇気である。写真行為で届くことのない彼岸の彼方に手を伸ばそうとしている。

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ここに一つの真実を提示しよう。女性が表現するエロスに男性のそれが勝ることはない。なぜならば女性の存在そのものこそ、何千年とかけて男達が創造してきたアートそのものだからである。だからこそ、安楽寺えみやインベカオリのエロスにアラーキーのそれが勝ることはないのである。これは是対真理の上に構築された事実である。完膚無き純実存に対して妄想としての虚像はあまりにも弱々しく、女々しく、儚い。だから男によるエロスが評価されることもあるのだが、やはり女が撮る実像としてのエロスというものは圧倒的に無敵である。いやはや、困った時代になったものだ。

http://www.inbekawori.com/
http://www.ratholegallery.com/exhibition.html

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必然悪としての写真行為

ネットが普及し一般レベルの人間が及ぼすことの出来る影響力もまた過大になり、言動にも細かな責任が問われ、いまこの日本において表現するということがとてつもなく難しいこととなりつつあるように思える。写真家はとくに生きにくい。生態活動としての写真行為に良いも悪いもないからだ。そこに正義や理念、社会常識を突きつけられたところでどうしようもない。写真行為を必然悪として拒絶するのであれば、魔女狩りがこの現代に台頭することと同様である。なぜ今、人は写真を恐れるのか。なぜ今、写真行為が否定されつつあるのか。肖像権などを主張されても、それでも写真家は写真行為を止めることは出来ない。今のこの日本の風潮を問題提起する上でも、尚更撮らなくてはならないのだと思う。

なぜ人は写真を嫌うのか。それは写真があまりに純粋な現実模写だからであり、真実とは人々にとってあまりに彼岸の物であるからだ。空気中の酸素濃度が上がれば酸素もまた毒となるように、あまりに"リアルな現実"は人々にとって苦痛でしかない。写真行為はやはり必然悪なのかもしれない。それでもそれがそれとして世に生まれ、現代に至るまで進歩と発展を繰り返してきたのは、それが人類の進化過程において必要とされてきたからだ。必然悪であると同時に人々の欲求の根源であったはずの写真。後ろめたさは写真行為を被ることによって整然と露呈し、それは永遠の時を超然と彷徨い続ける。不老不死の恐怖。完璧模写の記録性としての写真行為への恐怖。

なぜ警官は僕を連行し1時間拘束するほどまでに固執したのか。一般常識で考えれば理由はわかる。だが、なぜ? ここに、本来絶大なパワーを持つべき写真行為が今この21世紀において拠り所をなくしつつあるワケが潜んでいる気がしてならない。果たして現代の若手写真家たちは、70年代と比べてただパワーがなくなっただけなのだろうか。それとも? 意見を主張することが徳とされないこの現代において、不器用なりとも僕という写真家はそれでも一つ一つとぶつかりながらそれを模索するしかない。理論で納得して最初から撮らないのではなく、撮った後で考えるしかない。その行為の一つ一つを撮影以前に消去法で削っていっては何も残らない。

なぜ今、写真行為がこれほどまでに難しいのだろう。僕の行為は果たして極端なのだろうか。そうとは思わない。つまり、肖像権だのなんだの言う以前に、人は写真がキライなのだ。とりわけこの日本人は。だからこそこの日本人の素の表情に価値があると僕は考えてしまう。彼らが覆い隠すものに果たしてそれだけの真価があるのかどうかを問いただしたい。僕が海外に脇目を振らず、ただひたすらこの日本を舞台に写真行為を反芻しつづけるのは、そうした意味で紛れもなく不思議な社会を形成しているのが日本のみと考えるからである。海外へ出向いて異文化と対峙しそこで写真行為をしたところで、なにか呈示できるのだろうか。そこに生まれた人間以上になにかを提起できるのだろうか。まず海外に眼を向ける前に、この日本を消化しなければならない。それが、ここ日本に生まれた日本人としての僕の使命だからである。写真行為が否定されようとも、僕はこの日本のありのままの姿を撮る。それは生きにくい生き方なのかも知れないが、それが写真家というものなんじゃないかと思うんだ。

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写真家とは

突然だが、写真集とは"編まれた写真"ということだ。そして"編む"ということは、"文章を集めて本を作る、編集する"こと。つまり"写真を編む"という行為は"写真を集めて本を作る、編集する"ということだつまり。写真家にとって写真集とは、"自らの写真の集大成"であり、"自分が撮ってきた写真に方向性を植え付ける"という行為。つまり"写真を編む"ことで初めて写真家は自分の写真を意識し、そこに客観的分析を始める。そこに至るまでの過程においては"極めて本能的な狩人"なのである。

さて、それが当たり前だとして今まで写真を続けてきた僕にとって、欧米における写真への姿勢に訝(いぶか)しげである。コンセプトありきで初めてスタートする彼らの写真はあまりに自由度が低い。コンセプトから始まる写真とはつまり、ただ単純に"写真をツールとして選んだアート"であって、それは"写真家"ではない。"アーティスト"だ。そして"写真家"とは、"アーティスト"ではない。では何なのか。"写真家"とはようするに"写真家"に過ぎない。"写真家以下"でも"写真家以上"でもなく、字の通り"写真家"以外の何物でもない(一般論における定義でなく、僕個人の狭義の中においてのそれである)。


世の中に何かをまず訴えようと思うところからスタートするという点がまず、訝しい。なぜアタマからのスタートなのか。その時点からして、写真を撮ることを欲求として撮り続ける人間をアーティスト写真家たちが超えることはなく、お互い根本的に擦れ違うことはないだろうという決別が生まれる。まず撮ること。すべてはそこから始まるのではないだろうか。なぜテーマに沿った被写体を撮らなければならないのか。なぜ自分の作品をわざわざ自分の口から批評し人に伝える必要があるのか。なぜ、作品のすべての含みを自らの口から説明し、受け手による無限の解釈を放棄するのか。だとすればアーティスト写真家のすることとは営業であり、売り込みであり、それは商業である。本質はそこにあるのだろうか?


正直なところ、欧米アート写真家たちの作品には個性がない。よっぽど肉厚なコンセプトと圧倒的技術による作品であれば唯一性を問うこともできるかもしれないが、コンテンポラリー・アートにおける写真には、残念ながらそういった"パワー"を感じることが出来ない。それは単純な話で、作品を問題とするとき、彼らは感情を排除することをまず行うからである。冷静な立場で、客観的に自分の作品を見るということを重視するからだ。だが、どうだろう。そこまで徹底的な客観視は必要なのだろうか? 自分の作品を事細かに説明し、分析し、それを公表したところで、そこに"作品の持続性"は存在するのだろうか。つまり、価値。


もっと簡単なところに、誰もが唯一的に持っているものがあるではないか。それは"自分"だ。自分の歴史とはそれぞれがまったく別の流れと方向性を持っている。それを100%模倣することは不可能だ。それならば、その流れとともに写真と生きればいいのではないだろうか。欧米のアーティスト写真家たちに問いたい。そこに故郷はあるのか。なぜ写真を撮るのか。写真とは使命? ツール? 問題提起の道具? 自己顕示欲? なぜ撮ることから始まらない? なぜ撮る前に考える必要がある? それは"写真"なのか? 写真で何がしたいんだ? アート? アートってなんだ? アタマで考えすぎてやしないか? それはおもしろい行為なのか?


撮る行為と編む行為が存在するのが写真だ。撮るときに無意識的な選別を経て選ばれ、無意識的な構図で切り取られた現実は、編む段階において客観的な自己分析が徹底的に行われ、その結果、一つのベクトルが姿を現し、それが物語となる。それは写真家でなくても、一般大衆における写真の扱われ方から何一つ変わらない。撮り貯めた写真から好きな写真を選び、それをアルバムにする。それこそが"写真"。


なぜ、必要な写真しか撮らないのだろう。なぜ、自らの手で可能性を紡いでしまうのだろう。なぜ、作品のために写真を撮るのだろう。なぜ、薄っぺらなコンセプトを自らの口から発し、自らの手で自分の作品の可能性を無くしてしまうのだろう。はっきり言って、アート写真はつまらない。その場しのぎの発表会だ。だから写真史に名が残らない。写真史に名の残る写真家を思い出して欲しい。彼らの全てが写真とともに生き、つねに写真を撮り、誰よりも写真を愛していたことを。キャパ、クライン、森山大道、アラーキー、ドアノー、アッジェ、土門拳、木村伊兵衛、ナン・ゴールディン、ラリー・クラーク、ダイアン・アーバス。何百年といった単位で歴史に残る様な写真家たちはみな、ドキュメンタリーである。ドキュメンタリーとはつねに枚数との戦いだ。枚数とは常日頃から撮り続け、感性を研ぎ澄ませておくこと。それの反芻によって現実はゆがみ、世界は写真家と契合する。事実は小説より奇なり。考える時間があるのなら一枚でも多くの写真を撮る。そして一枚でも多くの写真を撮り、あらゆるときも写真とともに生きることで写真家は生まれる。


まず写真を考える前に、撮ることだ。撮ることから始まり、撮ることで終わる。つまらないものは撮らず、つまるものだけを撮るのではない。つまらないものも写真とし、すべてを並べた上で選別を行えばいい。果たしてつまらない写真とはなんなのか? それすらも曖昧だというのに何故コンセプトに沿った写真を撮るのだろうか。写真とは方法論ではない、撮ることだ。撮ることに誰よりも取り憑かれ、写真とともに生きる人間だけが歴史に残る。方法論で写真は語れない。コンセプトで撮られた写真はアートとして価値を見いだされるかも知れないが、それらは"写真"ではない。写真とは"考える行為"でなく、紛れもなく"撮る行為"である。本物の写真は研ぎ澄まされた狩人の眼によって切り取られ、それは誰にも真似ることの出来ない唯一性なのだ。そしてそれは自ら語らずとも自ずと人の心を魅了するからこそ、本物なのである。そこに写真の価値は、あると僕は信じている。

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なぜ写真は"写真らしい"のか

写真を写真たらしめるものはなにか。私たちが一見して写真を"写真らしい"と感じるのは如何なる根拠があるからなのか(ここでいう" 写真らしい"とは、"良く撮れている"という意味でのそれである)。モノクロ・ボケ・構図・瞬間・粒度・・・。では、これらを除いた先には何があるのか。


現代で言うところの"写真らしい写真"とは、言い換えれば故人たちの遺産である。僕らの世代にとって、それは言い換えれば"ア・プリオリとしての写真特性"。意識以前の性質は自ずと付随してくる。それが居心地良く感じるのは当たり前のことだ。それらに依存している内は、なにも新しいことは築かれない・・・。とは言え、これを言い出すと、中平卓馬の『なぜ植物図鑑か?』に行き着いてしまう。だがぼくは、彼の意見は極端でこそあったものの間違ってはいなかった、と思っている。ア・プリオリとしての写真特性を捨てたところから、自分にとっての純粋写真も始まるからだ。


写真を始めた中学当初より、僕はモノクロというものを扱ってこなかった。モノクロの持つ、"どう撮っても良く写っているように感じられる付随感"がたまらなくキライだったからだ。それは、自分が撮ったから良いのではなく、モノクロだから良いと思えるだけのこと。だが写真というものを表現として捉える人々の間でモノクロは一般的であり、むしろ積極的に使われる。そこに根拠はあるのだろうか? モノクロを使う理由が。コンセプトが。概念が。わからない。そこからだった、『自分の写真とは如何なる過程によって築き上げられるのか』ということを考え始めたのは。


表現として写真を捉えたとき、ゼロからの構築が不可能なこれとの対峙の中で、こうしたア・プリオリとしての写真特性を如何にそぎ落とすかということから全ては始まるような気がしてならない。それに依存している間は、なにも新しいものは生まれてこないからだ。なぜフィルム写真がよく感じられるのか。なぜデジタルではいけないのか。なぜモノクロなのか。なぜカラーなのか。なぜ人を撮るのか。なぜ被写界深度が浅い方が雰囲気良く感じられるのか。なぜ? どうして?


表現とはすべからずして疑問から始まる。それこそ作家としての原点であり、故郷である。そして我々表現者が追究すべき疑問点は未だして数多くあり(もちろん写真においてでさえ)、それらは不敵な笑みを浮かべながら闇に潜んでいる・・・。


さあ対峙したまえ! 写真家と心から宣言する者は誰一人例外なく!

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grasping things

ことスナップにおいて、被写体とのコミュニケーションに果たして意味は在るのだろうか。ぼくは、被写体と知り合うまでに至らないギリギリのラインを追究している。知り合った瞬間、話しかけた瞬間にしてその対象は、人間となってしまう。そしたら、おもしろくないのだ。個々の人間の背景を知りたいわけではない。その人間の皮をそのままの形で物質として被写体として撮り収めたい。もう一度言おう。話しかけた瞬間にしてその対象は、人間となってしまう。ことにこの都会において、人々は町中での偶発的な出会いに対する免疫力が低い。突発的接触は彼らにとってアクシデントに他ならない。だからこそ、コミュニケーションなしのカメラが力を持つ。ギリギリのラインを保ちつつ、彼らをハダカのまま撮り収めることに意味がある。話しかけた瞬間、被写体という物体はカメラという彼岸の先にいる僕を認識してしまうのだ。そうなってしまったら、もはや撮る意味はない。あくまで僕は彼岸からウツツを眺める。そのために必要なのが、カメラ。そして僕が撮る写真はスナップ。そういう方程式。でもこれは正論ではない。今の僕に必要な経験の一つ。全行程のうちの過程。正しい撮影だけが写真ではない。

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『それでも、生きている。』について語る

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いなかのじいちゃんは数年前にガンで下半身不随になってしまって、その一年後には死んでしまった。高校を卒業した辺りから田舎にはあまり行かなくなっていたから、下半身不随になったじいちゃんに会いに行ったときはもう、五年ちかくのブランクがあった。だからだろうか。じいちゃんが死んじゃったときも、それを事実として受け入れることが出来なかった。実際にじいちゃんの死体を見てみても、じいちゃんはただ寝ているだけみたいだし、なにも実感がなかった。そしてぼくはじいちゃんの亡骸を撮った・・・

葬式が進む過程をひとつずつ収めていった。葬式を撮るということにたいして始終、葛藤と戦いながら・・・。儀式は進んでいった。じいちゃんのカラダは黄色くなっていた。がりがりにやせ細っていた。

儀式がすすんでいって、最期に親族がじいちゃんの死体が入った棺桶に思い出の品を入れていった。ぼくは花を入れた。入れたとたん、堰を切ったように涙がこぼれてきた。おもわず、じいちゃんを取り囲んでいる親族の輪から外れて、隅っこで泣いた。そこではじめて、じいちゃんは死んだんだ、と認識した。


そこからの流れははやい。あっという間に燃やされて、いつのまにかじいちゃんはバラバラの骨の破片となっていて。それはとてもとても白く、とても固くて。ぼくはそんな骨のじいちゃんを撮りたかった。焼却炉に入っていく棺桶も撮りたかった。それはじいちゃんがへの愛の形だった。だけれどばあちゃんは『撮らないで』と僕にすがった。僕にはそれ以上、撮れなかった・・・

もっと撮りたかった。でも撮れなかった。それは、その環境に僕がつねにいてつねにシャッターを切っていなかったから。僕がいることが当たり前の空気で、僕がシャッターを切るのが常の毎日ではなかったから、だから人々は僕がシャッターを切ることを拒絶した。


深瀬さんは自分の父の葬式を最初から最後まで撮影している。それは祖父の代から写真館という特異な家系を持ち、深瀬さん自信が常日頃から家族をテーマに撮影をこなしていて、家族みなが深瀬さんのシャッターに違和感を抱かなかったから。だから人々は彼が儀式のすべてを撮影することを受け入れた。


付け焼き刃の好奇心を、儀式はそう容易くは受け入れてくれない。


葬式とは儀式である。故人を弔うことより、残された人間たちが故人の死を認識するために行われる儀式である。よってからして必要最低限の人員で行われ、そこに他者の介入を許さない。記録することも許されない。それは眼を通して記憶され、そうして次の世代へと伝承されるべきだからである。


じいちゃんが死んだ儀式をぼくを中途半端ながらも撮影した。そのときの写真を織り入れつつ作り上げたのが、現在TOMOKAFLEXで見ることの出来る『それでも、生きている。』だった。当時は鬱に悩まされ、生きているのがとてもつらかった。いつも死にたいとおもっていた。今でこそ、そういう感情はなくなって、それなりにやっていけているけれど。でもそんな折、じいちゃんが死んでしまって、ぼくはもう一度生きるということを考え詰めた。そのころ、七年ちかく飼っていたセキセイインコのピーちゃんも死んでしまった。自分のまわりで死を認識した初めての年。ぼくは悩んでしまった。

もう、ふたりは生きていないのに、写真を振り返るとふたりの元気な姿を簡単に見ることが出来る。断片的な記録に対して、永続的な記憶は、似ているようで少しちがう。だからこんなとき、人の頭のなかはとまどってしまう。ぼくは、じいちゃんに、ピーちゃんに、また会いたい。と、おもった。


死は強烈だ。強烈すぎて、その前ではすべてが真っ白に消え飛んでしまうほどに運命的だ。悲しいけれど向き合わなければならない現実。そしてぼくは、せっかく儀式として執り行われた葬式を経たにもかかわらず、じいちゃんの死を記憶でとどめずに写真で記録してしまったがために、一生じいちゃんの死とともに生きていく定めを負った。じいちゃんが死んだという事実は、いまだにほくの脳裏にこびりついていて、じいちゃんの死に顔も鮮明に覚えている。生前のじいちゃんのすがたよりも、死んだじいちゃんのことの方がぼくの中ではとても大きく残っている。写真家は現実と向き合わなければならない。忘れたい過去ですら作品の一部であるべきであって、だからこそ唯一無二の作品は生まれるからだ。


ぼくのなかでは未完成のままだけれど、それでも発表するに至った写真集『それでも、生きている。』は、じいちゃんが生きていた証だからだ。それはぼくひとりの作品ではなく、じいちゃんや家族、親族のみんなとともに作った合作だから、とても大切なものだし、愛がある。写真にはやっぱり、愛がこもってなければならないんだね。アラーキーも言ってる。写真には愛がなくちゃ、って。いつだってアラーキーの言うことは正しいんだよね、くやしいけど。


だからね、『それでも、生きている。』の構成はとても明るいんだよ。真ん中くらいはとても不安と闇と悲しさで溢れていて、そこからじいちゃんの死が来て、絶頂の哀しみに溢れて。でもそこから口のアップの咆哮で一気に展開が明るくなって。そこからは迷いのない新しい僕の目線になったんだ。だから最後がとても明るいし、パワーがある。愛もある。とてもいい写真集だし、ぼくにしか作れないもの。とても誇りであるし、ぼくが写真家宣言したのもこの完成がきっかけだった。


じいちゃんの死は、ぼくに多くのことを教えてくれた。
大切なひとの死から、いろいろなことを学ぶことが出来た。

人って、なんて自由な生き物なのだろう。自由だから、写真も撮れるんだ。


LINK - TOMOKAFLEX
(PORTFOLIO→WEB PHOTOBOOKを選択)

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ふと、ね。

ときどき思うよ、写真を撮ったからってなにになるんだって。べつに社会に訴えるようなものを撮るわけでもないし、人が見てキレイだと思えるような写真を撮っているわけでもない。でも仕方ないじゃない。ぼくにとって撮ることはもう、考えてどうこうできるような行為じゃないんだから。たとえ人がおもしろいと思わなくても、撮ることはやめられないんだから。たとえ人が眉をひそめたとしても、まるで揺らぐことのないなにかに支えられているのだから。

自分でも思うよ。自分の写真はとても地味であるし、パッとはしないなと。それでも信じられるなにかがあって、それはぼくの毎日の生活にとても密着しているもので、つなげていくと僕の視線なんだよね。日常の中で繰り広げられる偶然性あるいは因果律。それらによって生み出される刹那の瞬間の一コマ。それを切り抜くことの出来るデバイスはカメラと写真家の眼だけだと思ってる。コンセプチュアルな写真が最近の主流だけれど、それらは別にカメラじゃなくても出来るじゃない。それに、そんなの面白くないんだよ。過程としても結果としても。撮る前から頭のなかでガッチガッチに固められたようなものは。なんで作品の広がりをハナからつぶしちゃうの?? ぜんぜん、わかんない。


ぼくの写真が決定づけられたきっかけは、たぶんアラーキーだとおもう。あの人の処女写真集『センチメンタルな旅』の冒頭にあるマニフェスト「私小説宣言」のラスト一文にはこうある。

私は日常の単単とすぎさっていく順序になにかを感じています。

これは、あの人の写真に対する姿勢そのものをストレートに表した一言だった。これほどシンプルで尚かつ考えさせられるものはなかった。すごく突き刺さる言葉だし、写真家はみな、この一言を初心として掲げるべきだ。


写真家にとって何が大事かって??それは、どこまでも写真が自分と繫がっていること。だからぼくは仕事では写真を撮りたくないと結論付いた。それは自分とつながっている写真ではないから。自分とつながっていない写真は、ただの複製だ。ぼくの撮りたいものだけで構成されていなければ、それは写真と呼べない。だから無理矢理アタマひねって考え出したような、"自分と離れた写真"はやりたくない。


ただ単単と、日々の生活のなかで目に付いた事象だけが記録されていけばいい。そして僕に撮れる写真は『孤独』と『さみしさ』と、ときどき『強さ』と『可能性』。誰がなんと言おうが、そうなんだから仕方がない。それはもう、初めから決まっていることだし、今後もそうだとおもう。可能性があるから、まだ撮り続けている。可能性がなくなったらそこで終わりだ。でも幸いなことに、まだまだ成長している。ぼくの写真は着実に変わっていっている。この六年、細々ながらサイトを続けてきて良かった。誰にとってでもない、自分のための写真。ぼくにとってウェブサイトは公開の場ではなく、いつだって自己客観視のための実験場だった。

人から理解されないことこそ最大の誉れだと思って、まいにち写真を撮り続けている。それは続いていって、べつに最後まで理解されなくてもいいし、残らなくたって、忘れさられたって、全然いいんだとおもう。純粋に写真を撮り続けていきたいし、人から評価されたいという感情もあまりない。だからいっつも、コンペティションに応募しようと思っても、応募の段階でやめてしまう。なんか、ちがうんだ。。。垂れ流しの写真はクオリティもクソもないし、人から認められたからどう変わるとかもない気がして。もっともっと、写真なんてほんとに生活に密着した生理現象とおなじなんじゃないの?

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ただ黙々と対峙し、撮ることに躊躇するな

写真とは則ち、後ろめたい行為である。写真家とは則ち、忌み嫌われうるべき生き物である。写真家の人生とは孤独である。地位と名誉とは掛け離れた生き物である。


被写体としての日本人を考えたとき、彼らほど面白い人種はない。コミュニケーションを省いて彼らにカメラを向けると、或る者はカメラの前で"演技者"となり、わざとらしくカメラに気づいていないかのように振る舞いつつ、カメラを向けられているという突然のアクシデントに戸惑いつつも半ば興奮しつつ、オーバーリアクションを繰り出す。また或る者はとっさの出来事にリアクションをとれず、しかし自分が撮られるということに抵抗と苛立ちを抱き、そうした感情を行動には出さず表情で表す。そして或る者はささやかな"抵抗行動"として、カメラから顔をそらす、またはフレームから外れようと逃げる・・・

こんなにおもしろい被写体を前にして、コンタクトを取ることほどつまらないことはない。ひとたび彼らとコンタクトをとってしまえば、彼らとの関係性はたちまちにしてつながりを見せてしまう。日本人の場合、関係性の希薄さがもっともすてきなのに。関係性を築かず、しかし目の前で、なんらかの対処を取られる前に写す。そのギリギリのラインが楽しいしおもしろい。

こんなだから、写真家とは本来的にニヒリストである。滑稽さこそ、写真の原点である。


それでも自らにとって愛しい存在には、考えられるすべてのコミュニケーションとありとあらゆる愛情を注ぎながら向き合い、全身全霊で撮影するべきである。そのとき、撮る枚数は少なければ少ないほど、良いものが撮れている。しかし愛しきものほど、なかなかうまく撮れない。愛しいものに対して人は盲目になるものだから、得てして肉眼では良く見えすぎてしまう。だから、うまく撮れない結果におわったときは、カメラを放り投げたくなるくらい、やるせない気持ちになる。それでも満足できる一枚が撮れると、飛び上がるくらい嬉しいものだ。


自分にとって近い存在と無関係のもの、その両方をいっしょくたにして関係性を築くことはとても危険なことである。やさしさとつめたさがあるから、日本人である。さびしさと人見知りこそ、日本人である。とびきりの笑顔は、ここぞというときだけでいい。見知らぬ人間が見せる憎悪の方が、時として笑顔より強烈である。そういうものなのである。


ぼくの写真行為の過程において、被写体との間をコトバが仲介することはとても少ない。コミュニケーションほどムダで浅はかで非現実的なプロセスはないだろう。『撮らせてもらっていいですか』と、被写体と一言交わした時点ですでにシャッターチャンスは消え失せる。あとに残るのは緊張と期待の入り交じった、作られた虚像の表情である。それはとてもナンセンスである。撮りたいとおもったのは、そんな瞬間ではないはずなのに。だから、被写体がなんらかの行動にうつる前に写してしまう。ひとたび写してしまえば、あとはどうでもいい。それが重要だ。


こんなだから、写真家とは本来的にニヒリストである。滑稽さこそ、写真の原点である。被写体とのあいだに化学反応はなるべくなら要らない。純粋な彼らの生き方、存在そのものを写したいのだから、彼らはそのままの姿で写し込むべきなのだ。そして被写体がいなければ成立しない写真において写真家とは『釈迦の掌の孫悟空』。だから写真家は道化師に徹しなければならない。人から最も蔑まされる状態で撮影に臨むのが宜しい。人はそんな人間に対して本来の姿を見せるからだ。その瞬間こそ、写真家にとって最高の狩りの時間である。さあ、狩りのはじまりだ。

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名機GR DIGITAL by RICOH

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 GR DIGITALが復活した。CCDとLENS、鏡筒部分、ラバーグリップなどのフル交換。事実上の新古品になって返ってきた!これでようやく一安心。やはりカメラが懐にある生活にはメリハリがついて良い。オリジナルのてりーりちゃーどそんモデルです。レンズ周りのリングカバーがなくなっちゃってすこしダサいけど、これはこれで愛嬌。無くなる心配がなくなって更にハードに使い倒せる。かわいいかわいい、僕のGR DIGITALちゃん。


 RICOHのサービスセンターまで受け取りに来たついでにcaplio GX 100を試す。GR digiの後継機として登場した本機だが、性能がGR digiに追いつかず、ついにはGRの称号をつけることもできず、caplioシリーズの一つとして発売されたという惜しい経緯をもつカメラだ。以前試したときはピントが合うまでのスピードが遅すぎてまったく使い物にならないというのが正直な感想ではあったが、今回30分ほど手にしていじってみた感覚としては「意外に悪くない」というものだった。


 あくまで一撮影者の私的感覚として挙げられる、GR digiとの比較で感じた差異。それが「ピントが比較的合わせやすく、測光がより的確」という点。GR digiは総合的に"じゃじゃ馬"感の否めないモデルであり、使いこなすにはカメラの知識とセンスを或る程度要する。ピント合わせにも一癖ある。毎回プレビューにて八倍に拡大して確認しないと安心できない、それがGR digi。その点、GX 100は操作感の点において臨機応変な反応が感じられた。GX 100の最低感度である80で、GRでは微妙にブレるような荒い動きで撮影してみても、プレビューではブレていない様にみえた。プレビュースクリーンもよりシャープネスに表示され、初心者が好感できる写り映えだ。全体的にボタンも改善されており、華奢感が目立ったGR digiにくらべてより頑強なイメージ。全体を通しての感想としては、非常に期待が出来るということで、購入欲すら出てしまった。
 
 が、テストの一貫として自分のSDカードを入れて撮影もしたのだが、帰ってきてデータを展開してみて細部のチェックをしてみると、やはりGR digiの貫禄と圧倒的な違いを垣間見ることとなる。やはりGX 100で撮影した画像は鮮明さにおいてGRに匹敵するレベルではなかった。コンパクトデジカメ特有の不鮮明さが目立った。どうやら描写力に問題があるように感じられる。GR digiにはGR LENSやGR ENGINEが搭載されていて、その点に強みがあるようだ。フィルムに近い描写はやはり、GRの専売特許のまま、GR DIGITAL IIに引き継がれるのだろう。


 そう、RICOHはこのたびGR DIGITAL IIを発表した。有効画素813万画素から有効画素1001万画素へ、GR ENGINEもIIへと進化した。一見、マイナーアップグレード版に思えるIIだが、よく調べてみるとGRでは届かなかったような" かゆい部分"にまできちんと意識・対応された理想的コンパクトデジカメであることがわかる。以下、僕が注目した主な追加機能。


◎ ノイズリダクション…暗闇時でのノイズを低下させる。
◎ 調光補正±2.0EV(1/3EVステップ)…フラッシュの補正。これが一番期待。
◎ 撮影可能枚数のアップ…同バッテリーで撮影可能枚数が120枚増えた。

○ 被写界深度表示機能…深度によるボケを確認できる。
○ マイセッティングモード…ダイヤルにマイセッティングを搭載。
○ ファンクションボタン…十字キー左を押すと、予め選んだ機能を表示。
○ 画像の縦横自動回転表示…縦で撮られた写真はプレビューで縦表示。

△ 機能電子水準器…水平を感知する機能。
△ 手動ポップアップ式内蔵フラッシュ…本体横にフラッシュ起動スイッチ。


 こうしてリストアップしても地味な追加機能。だが、とことん使い倒したい機種だからこそ、気になる細部。目立ったヴァージョンアップよりも、如何にスムースな操作性を追究するかという点を重視してくれたRICOHに感謝。

 とくに露出補正のみで調光補正のなかったGR Iではストロボ発光の調節ができないため、使い勝手が悪かった。さらにはストロボがいいかげんなのがGRの悪いところで、発光に極端なほどムラがあったのだ。たとえ同じ被写体に対してであっても、強く発光することもあれば、弱すぎる場合もある。他のカメラではありえないような、"あまりに強すぎる光"が飛び出ることもしばしば。そんなときはプレビューで確認しても画面が白飛びしてしまって、なにが写っているかすらわからないほど。ここぞという大事な場面で、操作は誤っていないのにそんな失敗をしてしまうことが多々あった。IIではおそらくその点も改良されているに違いない、と踏んでいる。ストロボが手動でポップアップが可能になったのも良し。


 そうでなくても撮影可能枚数の多かったGR。従来のコンパクトデジカメでは、一日フルで撮影しようものならバッテリーが持たなくて途中でバッテリー切れということも多々あった。が、GRの場合は数百枚撮ってもバッテリーの減りが感じられない。とにかくバッテリーの持ちがいい。これには購入当初、驚きを隠せなかった。そんな撮影可能枚数がさらに1.5倍アップ。


 最終的にはGR ENGINEがどこまで進化したかがいちばんの問題であるが、従来のGRの場合、A3プリントまでいくと、ISO 64であってもさすがに荒さが目立った。これはモスキートノイズであるから、GRそのものの描写力に依存したものであると考えられる。そうなると問題となってくれるのが画像そのものの大きさに関係するCCDの大きさと、描写力や処理能力に関係してくるENGINE部分。


 まず、CCDは1/1.8型原色CCDから1/1.75型原色CCDにアップすることで従来より画像サイズが大きくなった。そしてENGINEは、30日に横浜美術館で開催されたGR DIGITAL IIでの発表会でのコメントを引用するならば、『GR ENGINE IIの開発目標は「レンズの性能を引き出すこと」、「耐ノイズ性向上」と「RAW連続撮影と書き込みの高速化」、「低消費電力化」』であるとされているため、これによりGR Iで特に課題として挙げられた低ノイズ化がまずクリアされたようだ。

 なんと、「GR DIGITAL IIではISO400でGR DIGITALのISO100と同等のノイズレベルを達成した」とのこと。これはうれしい。というのも、GR Iでのノイズに関して考えると、ISO100以上は作品を撮影するには耐え難いレベルだったからだ。僕の場合、基本的にISO 64以上にすることはなかった。暗い場合はストロボを炊けばいい。ブレは或る程度のテクニックがあれば防げる。GR IにおけるISO 100以上はシビアな目線から見たら実用範囲の内ではなかった。それが400まで引き上げられるとすれば、とてもうれしいことである。

 レンズ自体はIからそのままのカタチで受け継がれるようだが、それというのもレンズの性能をIでは生かし切れなかったことにあるだろう。レンズの完成度はすでにIで出来上がっていたのだ。そこに秘めたポテンシャルを更に引き上げることを目標に、IIは発表された。


 正直なところ、IでもA3に耐え得るだけの力は持っていた。だが、もっと追究できる感はあった。そこをIIはクリアしてくるだろう。ううん、ほしい。ノドから手が出るほど、ほしい。GR Iは中古で四万で手に入れた。まだ手に入る領域であった…。だが新製品のIIはおそらく最初は八万オーバーだろう。高い、高すぎる…!!


 GR digiでもまだまだ作品とするには描写力に課題が多かった。それでも健闘していた。GRを購入して半年ほど経ったが、今日までに五千枚は撮っただろうか。ここまで体にフィットしたカメラは10D以来である。とても良いカメラだ。機動性、携帯性、自己主張のないボディ、シャッターを押すまでの起動の早さ、単焦点ならではの圧倒的な描写力、僕の世界観に合った28mmワイドレンズ、電池の持ちの良さ、、、挙げても挙げきれない幾多の要素が絡み合って名機を生み出した。その名機はさらに名作を生み出す。。。そんなGRのポテンシャルをさらに引き上げたII、オレはとてつもなく欲しい!

 ここまでカメラを愛したのも久しぶり。RICOHありがとう。GRありがとう。仕事がんばって、給料が上がったらII買いたいな。そしたらもっともっと写真撮りたいな。GR Iと二刀流で持ち歩きそう。そんなことを想像したらワクワクしてきた!


 とは言え、そんなまとまったお金なんてないのだから、とにかく今はIを使い倒すことにする。新品になって返ってきたGR DIGITAL。そして新宿で首掛けのストラップを購入してきた。これでさらにシャッターチャンスを逃すことなく撮れるにちがいない!今までありがとう。これからもよろしく、GR。


リンク
製品情報 / GR DIGITAL | Ricoh Japan
製品情報 / GR DIGITAL II | Ricoh Japan
リコー、GR DIGITAL IIの発表会を横浜美術館で開催

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すべての写真は虚像である

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《牢獄の父》


僕が寄せる写真への想いとは、記憶喪失になる前の中平卓馬の思考に案外と近いものがある。写真から感情を漂わせることがイヤなのだ。感情的あるいは情緒的、それらを超えた、突き抜けた"まこと"を写したい。


感情とは、写真の前では邪念でしかない。被写体が「こう見せたい」とか「こういう自分を撮って」等の念と抱くというのは以ての外。はたまたそれを人は人間性と呼び、それを撮ることを美学と人は呼ぶのかもしれないが、そんなのは全くもって要らないというのが私の考えである。

なにかこう、「人が人でなくなった瞬間の美」を超えるものはないと思ってしまう。それは、ふと力を抜いた瞬間でもあるし、ひとりの人間を何億枚と撮ることでふたりの間のカメラという異物が異物として認識されなくなった瞬間でもあるのかもしれない。とにかく、写される者がカメラを意識している時点で、そこに写った写真とは、ただの"記録写真"である。それは僕の呼ぶ"写真"では、ない。


たまに、カメラというものをまったく知らない人を撮ってみたいと思うことがある。彼あるいは彼女はそれと対峙したとき、なにをその顔に淀ませるのだろうか。とまどい?不安?怒り?少なくとも、最初の一枚はもっとも完璧に近い自然体を撮ることができるはずである。そんな一枚を、僕は撮りたいのである。それは生まれたばかりの赤ん坊でいいのかと言えば、否である。赤ん坊とは"無"の状態。撮りたいのは、"無"ではないのである。あくまで"有"のなかでの"刹那の無"。"ゼロに等しい無限大"とでも言おうか。

まったくもって矛盾した話であるが、そもそも人間とは矛盾した生き物なので、気にしない。


撮り手の感情は果たして写真に残るのだろうか。ふたりのあいだの"異物"が消えた瞬間の写真は、とても美しいはずだ。そしてそんな写真をいままでたくさん目の当たりにしてきている。突き抜ける真実。むしろそこに残ったものこそは「素の感情」なのかもしれない。それならそれで、ぼくはもしかするとそれを追い求めているのかも、しれない。


写真は刹那を永遠の証言としてしまう。どんなに虚を重ねたとしても、それはいともたやすく見破れてしまう。人の表情とはそれだけ繊細でわかりにくそうでわかりやすい。写真を撮っていると、人のふとした些細な表情でその人となりが見えてくる。眼や口のカタチやシワ、動き、ゆがみ、そうした顔を形成するパーツがすべてを物語ってしまう。それは悲しいことでもあり、そこにはもう言葉なんて必要としない。言葉を交わすことに意味を見いだせなくなってくる。だから写真家とは口数が減っていくのである。


ことばなんて、うそっぱちだらけだ。でも写真はもっとうそっぱちだ。そしてうそを撮り続ける写真家とは、悲しい道化師なのである。そのことを知っているひとは、案外すくなかったりする。

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キャリブレーション

ついこのあいだの"HDDクラッシュ事件"のあと、また新しいHDDにOSXを入れ、環境を再構築させることでふたたび作業ができる様になったわけだが、ひとつひとつと、微妙な設定のし直しが必要になってきて、その一つにPCとプリントとのキャリブレーション問題があった。


PCで写真をプリントする場合、ディスプレイとプリンタとの間における色味の相違の問題が出て来る。これを調節し、合わせることを"キャリブレーション"と呼ぶが、厳密な部分を追究し出すとかなりの根気と時間と印画紙とインクがかかってしまう。微調整の結果はプリントすることでしか分からないからである。厳密にはここにデジカメも加わってくるのだが、これに関してはsRGBかAdobeRGBのどちらを選択しているかだけでも判れば問題ではない。ほんとうに曲者なのは、プリンタなのである。


こいつにここ3日ほど悩まされた。幾度も幾度も調節すれども、印画紙がどんどん消費されていくだけで目標からはどんどん程遠くなっていくばかり。どうしてもプリント結果がイエロー寄りになってしまう。もはやプリンタを買い換えるしかないのか…とまで考えるようになっていた。変えたところで同じ問題はあるだろうに。


がしかし、さきほどネットにていろいろお勉強をしていたところ、意外な情報を手に入れる。世の中にはキャリブレーションを自動でしてくれるソフトがあるのだが、そのひとつに「huey(ヒューイ)」というものがある。これは、付属のデバイスをディスプレイにくっつけて、そいつから測定をすることで自動でキャリブレーションをしてくれるというもの。他のキャリブレーションソフトが数十万(!!)する中でもヒューイは1.5万程度で手に入るため、とてもお手頃なアイテムである。


とは言え、極貧の僕。そんな価格ですらためらってしまう。。。なので、少しでもキャリブレーションに関する情報が欲しくて調べていたら、、、どうやらヒューイは基本的に、ディスプレイのガンマ値をMac標準の1.8→PC標準の2.2に、色温度を6500Kにするらしい。このふたつなら、マックの"システム環境設定"→"ディスプレイ..."→"カラー"→"補正..."でいじることが出来る。これはひとつ試す価値のある値だと思い、さっそく試してみることに。結果、ディスプレイはよりコントラストがつき、色味がイエローがかった。


この時点でこの雰囲気にピンと来る。今までのプリント結果では、ディスプレイよりも黄色みがかっていたからである。ディスプレイが黄色に近づけば、プリント結果も自然と近づくわけで、その原理は分かっていた僕は、今までプリンタの設定でカラーバランスをいじっていたのだが、RGBとCMYの関係性はただ一色を調節すればいいというものでもなく、全体の絶妙なバランスが不可欠である。うまくいかなかったのは言うまでもない。しかし今回、ディスプレイのプロファイルがヒューイの設定にした途端に、それらしい色になったということは期待してもいいのではないだろうか。


事実、プリントの女神はようやく微笑んでくれた。今までとは打って変わって、ディスプレイに近づいた色が出ているではないか!これぞ、感無量の一言である。あとは本当の意味での微調整だけだ。ここからの研究で判ったことは、印画紙の種類でも色味が大きく変わってくるということ。僕のプリンタ"Canon IP7500"においては、写真用紙だとイエロー寄りに、マットフォト紙だとレッド寄りになる。そこで、微調整として写真用紙の場合、C +13, M +5, Y -8, B +5, 濃度 +5に。マットフォト紙の場合、C +10, M -10, Y +10にしてみた。これによって、更に"真実"に近づいたわけである。


これでようやくプリントに専念できます。

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逆流性食道炎あるいは彼岸の眼

さいきん胃酸が逆流します。逆流胃酸のせいで口の中がヒリヒリとすごく痛くなります。ぼくの胃は今現在どうなっているのでしょうか。炭酸の飲み過ぎかな?!逆流性食道炎になっちゃう?病名って、漢字が並んでてなんだかかっこよく見えちゃうよね。さながらステータス?プロフィールの一部?「わたしは逆流性食道炎です!」って、なんか偉いポストの人みたいだよね。そこなことはさらさらないけどね。

突然ですが、ぼくは、写真はカテゴライズだと思っています。もともと、ぼくは今のTOMOKAFLEXのようなスタイルでの写真展開が本能的にすきらしく、どうにも"物語的"とか"叙情的"とか、そういうのからは遠い存在で、どちらかというと「無感情で繋がりのない単独の絶対客観性写真」を追い求めています。絶対客観性、それはつまり「彼岸の眼」なのであります。中平卓馬の「植物図鑑論」に近いところはある。それでも写真から主観が消えることは絶対にありえなくて、だからその曖昧さが良いんだよね。さあ決まった。次のなにかのタイトルの「彼岸の眼」です。よろしく。でも、ぜんぜん薄っぺらだ。カテゴライズ化された写真には資料性しかないのかな。作家性ってやっぱ真逆だと思うのだけれどでもやめられない。だから続けるしかない。撮りためてれば、いつか答えは出るはず。

さいきんは僕ひとりで理解して一人で納得する日記ばかりですみません。いろいろとはじめようとしているときは、言葉がいろいろ出て来るもので、それにはどこかはき出す場所が必要なのであります。

私写真とマニエリスムとの間における関連性とそれの考察

マニエリスムとはその語源をマニエラ(手法)とし、ルネサンス期に完成された均整のとれた芸術様式の手法のみを拡張・変形・引用といった形で発展させた様式で、後期ミケランジェロをはじめ、ティントレット、ポントルモ、パルミジャニーノ、エル・グレコ他の絵画やチェリーニ他の彫刻などに代表される。

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私にとっての写真


写真とは現世と彼岸を行き来する原理的方法論であるとともに、如かしその実に触れることを許さない極めて記号的信号による虚実の露呈である。現実という、まことにもって存在の証明すらも危うい"今"といった刹那は、何億もの情報によって今まさにここに簡潔に定義づけることができるのも、写真の存在あってこそのものと言えるだろうが、それこそそこを疑問視することが重要である。

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写真を撮るということ

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写真は背伸びをしちゃいけない。

いくらかっこつけてムリをしても、その人なりの素直な気持ちを込めなければなにも伝わらない。素直な自分を振り返ったとき、かっこわるい自分やよわい自分や情けない自分でもいい、なにかがそこにはあるはずだ。恥ずかしがらずにそれを作品に形づけていけばいい。そして、それに気づくのは、撮った写真を何万枚も集めて見直したときだろうな。撮るときは、なにも考える必要はないんだ。コンセプトなんか要らない。シリーズなんか考えなくていい。それは写真を縛るだけの愚かな行為だ。好きなように、自分の本能が感じとったなにかに反応して撮ればいい。考えるのは、後の作業からでいい。。。

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写真家の素質とは。写真家にとっての写真とは。視野心に還ろう。

ここのところ、耳に入ってくる音の情報を正確に汲み取れずに困難している。音楽を聴けば、旋律はただの刺激へと退化したものを感じるばかりで、それがどんなメロディなのかといった味わいを堪能するのもままならない。人の声などはそれこそ言葉のカタチを忘れ、それがどの様なことを伝える色素なのかすら理解できない。脳みその著しい退化が僕を次第に焦らせる。こわい。

それだから、最近は何をするにも脳みそがうまく働いてくれず、ひどく億劫である。世界がとてつもなくゆっくりに感じられる。そして僕は、現実と妄想の狭間を行き来するのだ。


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