- 2007年8月26日 22:24
- 記 : DAILY DIARY
《疲れ切った僕らの明るい明日のために》
今日は第一期夏休みの最終日ということで、しぜんと写真について悶々とふりかえる日となった。というわけでなにか刺激が欲しくなって、本屋で雑誌を二冊観てきた。「PHaT photo」、「commercial photo」。最近の写真雑誌、とりわけこの二誌はなかなかにして時代の流れを敏感に受け取っているものとしておもしろい。というのも、デジカメが普及し、誰もが写真を手軽に撮れるようになったこの時代、それはそれはとてもたくさん出てきた写真家のタマゴたちがどのようにしてプロになれば良いのか、その流れをかくも丁寧に紹介しているからである。それにしたって、おかしな話である。これだけ情報化社会と言われる世の中において、「写真家になる過程」をわざわざ雑誌が教えなければいけないのだから。つまり、「情報最大、知識最小」の情報バカばかりなのが今の時代なのである。アーメン。
そしてもうひとつ、この時代にして、あまりに写真がキマりすぎており、そして優等生すぎるということが気になっている。あまりにすべてがオシャレすぎやしないか。もっと格好悪くてもいいのではないか。それは本心から離れてはいやしないか。そこに写真はあるのか?アラーキーは言っている。「やっぱりへたくそでスケベな写真じゃないと面白くない」。スケベであることはここではおいとくとしても、へたくそであることはとても大切なことである。深瀬昌久もカメラ毎日コンテスト選評でことごとく言っている。「もっとシッチャカメッチャカな写真でもいいではありませんか。完璧すぎてはだめだ、すこし下手なくらいがいい」。つまりはそういうことらしい。深瀬氏にとって、コントラストを変えることやトリミングは、ほとんどの全ての場合、意識的な小手先行為としてあまり芳しく思えなかったらしい。撮ったままを見せることはそれだけ、写真にとっても素直なことで宜しいと見えたらしい。実に、真理である。そして、盲点であった。今の時代を振り返ってみるとどうだろう。デジタルになって、リタッチが当たり前になっている。かく言う僕自身、ごりごりのリタッチャーである。しかしそこに本質があると信じて、撮影後の作業こそ大事にしている。それは今までのフィルム方式では成し得なかった方法論をたたき出せる気がしているからである。
それでもたまに、ふと悩んでしまうのだった。これは本当に本質なのか、と。写真からはどんどん掛け離れていってやしないか、と。それこそ、写真とはなにか。言わずもがな、それは僕自身であり、この悩みこそ写真なのであった。問題なのは自分の自身の心であり、写真はその鏡でしかない。その前提の前では如何なる方法論や技術の相違はまるで問題ではないのであった。そこに気づいた時、写真にいっぽ近づけた気がした。ただ単に、気がしただけかもしれない。それでもいい。
迷いもまた善しとし、それを写真に反映するか。それとも着飾ったもう一人の自分に撮らせて自分に酔うか。どちらかというと、素直であることの方がより良いとは思いませんか。ひとつここは、自分に正直になろうではありませんか。
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