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展 : EXHIBITION Archive

Bob / Terry Richardson Photo Exhibition in Japan

Bob Richardson Exhibition

会場: ZEL CAFE / GALLERY:
東京都港区六本木5-10-25 ゼルコート1F
期間: 4/25 (Fri) - 5/8 (Thu)


Terry Richardson Exhibition

会場: LAFORET MUSEUM 原宿:
東京都渋谷区神宮前1-11-6 ラフォーレ原宿6F
期間: 4/26 (Sat) - 5/8 (Thu)


世界を代表する孤高のファッション・フォトグラファー、Terry Richardson/テリー・リチャードソンおよびその偉大なる父であると共に60年代を代表するファッション・フォトグラファー、Bob Richardson/故ボブ・リチャードソンの最初で最後となる親子展をここ日本において同時開催。

それぞれの開催は別会場となりまして、ZEL GALLERY (港区六本木) にてBob Richrdsonの写真展を2008年4月25日より2008年5月8日まで、そしてLAFORET MUSEUM (渋谷区神宮前) にてTerry Richardsonの写真展を2008年4月26日より2008年5月8日までの期間に渡って展開。

ボブ・リチャードソンは60年代のファッション・シーンを語る上で欠かすことの出来ない重要人物。当時のファッション写真の在り方に少なからず疑問を抱いていた彼は、服よりもそれをまとう人物にクローズ・アップし、生々しく溢れる人間性から"等身大のファッション"という解釈を新たにもたらしました。

こうして時代の寵児として君臨し、その後も多くのフォトグラファーに影響を与えていったボブ。そんな彼に共鳴するかのように、その息子テリーもまた、ファッション・フォトグラファーとして頭角を現し、GucciやMiu Miu、Supreme、Tom Ford、Sisleyといった名だたるブランドのキャンペーン・シューティングをコンパクトカメラのみでこなすという前代未聞の挑発的手法によって一世を風靡します。本来、対外的であるべき写真において、撮る立場のテリー自らもまたその登場人物の一人として入り込んでしまう彼のスタイルは極めて自伝的であり、写真家としての唯一無二を更に高めてゆきました。

2005年のボブの死を惜しむかのように、息子テリー自らの編集によってボブの写真集『BOB RICHARDSON』が昨年夏に〈DAMIANI〉より出版され、話題をさらいました。今回、そこからテリーによって選び抜かれたセレクトと、作家としてのボブの未公開作品とをお見せすることで、ボブ・リチャードソンという偉大なフォトグラファーの二面性を露呈させます。

ファッションというフィールドで親子二代に渡って物議を醸したテリーとボブ。親子という関係性以上に"写真、そしてファッション"という巨大な運命の鎖によって強く結ばれていた彼らの最初で最後の親子展、乞うご期待ください。


LINK - Amercan Apparel Japan

展覧会批評 : 日本の新進作家 vol.6 スティル/アライヴ

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左)大橋仁 「SEA」 2007年、写真作品
右)屋代敏博 「回転回LIVE!鶴岡北高校 美術室」 2007年 写真作品


きのう久しぶりに写真美術館へと赴いたので、たまにはその手のレビューもしてみようと思う。

写真関連の展示で観てきたものは二つ。『日本の新進作家vol.6 スティル/アライブ』と『土田ヒロミのニッポン』。まず前者に関して語る。ちょっと長くなったので、後者はまたの機会に。


『日本の新進作家vol.6 スティル/アライブ』に関して、写真美術館公式ウェブサイトでは前書きが以下のように書かれていた。


第6回目となる本展は「現代人の生と時間、その表現」をテーマに、写真・映像をメディアとして制作活動を行う30代のアーティスト4人に焦点をあてたグループ展となります。

現代生活において、人はたえず更新される現在の速度に対応して生きていかなければなりません。一方で、次第にゆっくりとしたものの価値を見直そうとする変化も時代の流れのなかで生まれています。どのように生きるか、どのように時を過ごすかという選択肢はかつてより増えはしましたが、かつてのように進歩を信じることができず、個人レベルでは大人も子供もどことなく閉塞感を持ち、未来に希望を持てない空気が漂っています。

写真映像の世界での急速なデジタル化やコミュニケーションツールの発達によって、時間体験は今や自由自在に編集可能で、当たり前のように反復し、共有することができるようになりましたが、同時にそのことが「今、ここ」に生きている感覚を希薄にしつつあります。「時間」というものそれ自体は目に見えない観念的なものでありながら、人にとって、それぞれの生きた時間は切実にリアルなものとして感じられるはずです。そんな瞬間を日常生活のなかで捉え、写真や映像で表現する作家たちは、「時」をどのようにイメージし、形にしていくのでしょうか?

本展では、作品にこめられた様々な時間意識、時間表現と、展覧会を見る人、そこに関わる人が過ごしている時間が交差し、「今、ここ」に生きている感覚を共有されることを目指します。

<東京都写真美術館公式HPより引用>


たしかに「時」という目に見えない概念を体現化することは、「いま」があやふやとなっている現代だからこそ必要とされうる行為であるだろうし、なされうるべき行為である。だが、このあまりに広大すぎるテーマに、参加作家たちのとまどいの声がどことなく聞こえてくる気がする。


参加作家は四人。写真を媒体とする作家として、大橋仁・屋代敏博。ビデオをそれとする作家として、伊瀬聖子・田中功起。展示の流れの順に見てみると、伊瀬聖子は暗闇の部屋の中に投影された映像とそこに流れる音響、そしてそれとは別で壁にぶら下げられたヘッドフォンからの異なる音によって独自の空間を作り出していた。"同一の映像素材を使って異なる構成、異なる速度で見せる"とパンフレットにはあるが、あまりに今回のテーマを誇大解釈しすぎて逸脱している感は否めない。

昨今の日本におけるビデオアートは往々にしてこの手の"なんとなくいいカンジ"が多い。それらは場合によってはヒーリングのためにはもってこいかもしれない。だがそれが何かを問題提起しているのかと言ったら、甚だ疑問である。であるからして、これだけ参加作家が絞られた本展にこの作品が在ることの意味を疑う。


次は屋代敏博。彼は写真をツールとして用いているが、彼の作品を観てみると、一見どこにでもある何気ない風景の中になにやらぼやけた不確かなものが写り込んでいる・・・。実は、カメラの撮影技術の一つである長時間露光を利用して、シャッターが開いているあいだ被写体の一部が回転することによって出来る軌跡を写真に閉じこめている。この"なにやらぼやけた不確かなもの"というのは、まさに氏自身あるいはさまざまな人が回転することで出来た軌跡である。名前こそ知らなくとも、彼の写真を観ればなんとなく知っている人も多いはず。そんな、観る者の好奇心をかき立てる写真で注目を浴びている現代アーティストだ。


目には見えない時間という観念を判りやすく砕いて再構築する方法論として、彼が写真をその媒体に選び、長時間露光をその手段に選んだことはとても興味深い。何気ない光景の中、回転台に乗った人々が回る、それをカメラが長時間かけてゆっくりとフィルムへその軌道を焼き付ける。本当にただそれだけのことではあるが、そのシンプルさこそどうしてどうして。

本来的には「刹那の瞬間を切り取り、記録するための装置」として生まれたのが写真機であり、そこに時間軸は存在しないとされてきた。もしそれをそれとして体現するとしても、そこには枚数が必要だった。今で言うところの「映画」を発明当初は「活動写真」と言っていたように、静を動として息づかせるためには"コマとしての連続性"を求められた。つまり、写真において時間を一枚の写真で表現することは本来的に困難であったと言える。だが彼は、長時間露光という写真特性に目をつけ、それを「時」と結びつけたことでそのタブーを見事に突き破ったのだ。その点においては新しい写真の見方を提示してくれただろうし、とても新鮮であった。


だがどうだろう。その作風を見ている限りではあまりにポップすぎて、どうにも僕の首を傾げさせてしまうのだ。たしかに伝えたいテーマはよく判るし、媒体として写真を選んだことも間違いなかったと言えよう。すべては合理的に構築されているにもかかわらず、だがどうにもこの作品群と向き合うとそれを素直に受け入れることの出来ない自分がいる。

今回の展示では回転するだけでなく、本人も作品の中央で写っているのでどの様な姿かたちをしているかが明確に分かるのだが、その出で立ちはまさにウケを狙ったような奇抜なスタイル。レッドの全身タイツにレッドのアフロ、星型のフレームをしたレインボーカラーのメガネ。一見して道化師のような格好だ。ではなぜ、彼にはそうする必要があるのだろうか・・・。本来的に彼の作風は上で挙げたような要素で既に事足りているはずだ。なのに、どうして? 要するに、僕が気になったのはどうやらこの点に由来するらしい。


彼はこのテーマをソーシャルな環境で表現することを大事にしている様だが、それは人が或る一定数に集まる環境における人々を描く上で、その環境に属する人々を<コラボレーション>という名目で参加させることが必要た゜ったのだろうと予想できる。そしてそうなると、必要となってくる人数もそれなりの数がいるはずである。今回は学校を舞台に、幼稚園から大学まで15の学校と共同制作したとのことらしい。そこには必然的にコミュニケーションが求められるだろうし、ましてやソーシャルな環境において彼らを統一し、一つの作品を作り上げる過程では、映画における監督のようにカリスマ性を求められるであろう。そこで彼は悩んだ挙げ句、あの出で立ちを生み出したのではないかと勘ぐってしまった。


実際の本人を見てみると、失礼だが、とてもインパクトのある様には見えない。典型的日本人で、覇気もなければ力もなさそうな優しそうな人である。そんな人がこのようなプロジェクトを行為する時、おそらくあのような恰好をすることを要求されるのだろう…。とても厳しい様だが、そこがこの作品群を弱くさせている所以であるのではないかと思っている。


本質的に作品のコンセプトに無関係の要素は極力排除すべきである。それが出来なければ、それはその作家の力不足であるし、至らぬ点である。そこまで言わないとしても、それをポップ・アートと捉えるには難しいところが多々あるのではないだろうか。

たしかに「ポップに楽しくみんなと共同制作、見た人も明るく楽しく」といった方向性は今の時代に必要とされている一つのアートのカタチなのかもしれない。最近では記憶に新しい金沢の21世紀美術館などは、体験型アートを取り入れたことで話題をさらった。それまで敷居が高すぎて手のつけにくいとされた美術・芸術をどうにか身近なものにさせようという努力がそこにはうかがえる。


だがどうだろう、これ等は元来そういった必要性の求められる分野ではなかったはずである。惜しむらくはこの日本において美術・芸術を教育する環境もなければ人材もいなかったということ。だから日本人は芸術を目の前にしたとき、それに対して思いを発することに戸惑いを隠せない。それを分解し、自分のマテリアルで以て再構築させる行為に慣れ親しんでいないから、どう理解していいかで悩んでしまう。だからこの様な矛盾が発生する。なぜ今、美術・芸術が自らの手足で観る者へアプローチしなければならないのか。こうしたスタンスは、あまりにも観る者に媚びた姿勢のように感じられて、嫌悪感を感じられずにはいられない。


彼に対しても、どことなくそう感じてしまう自分が居たのだ。なぜ観る者へのアプローチを必要とするのだろうか。なぜ理解を求めるのだろうか。なぜ、作品で人々に楽しまなければならないのか。アートという単語がそれを体現している。"芸術"といった重苦しく敷居の高い雰囲気のコトバをカタカナにすることにより、スタイリッシュでスマートなそれを醸し出すことに成功した"アート"というコトバ。だがそれは言うなれば幼児に与えた玩具のように甘々しく、そして脆く単純だ。本質的な"art"から掛け離れ、日本において独自の解釈を形成した"アート"。言うなれば "形骸化したart" は恥じるべき文化である。そこに一抹の不安は、たしかに漂っている。


次、大橋仁。今回の展示で唯一の写真作家。ここで一つ注をつけるのであれば、前述の屋代敏博氏は写真作家ではない。彼はメディアとして写真を選んだに過ぎないアーティストである。昨今において写真をツールとして選ぶアーティストは多く、つまり写真作家以外が写真を用いたばかりに写真界がそれを認識するという事態が今まさに同時多発的なタイミングで発生しているが、彼らは根本的に写真作家と離別して認識すべきである。写真作家とはアーティストではない。ただ写真作家であるだけである。ここにも、写真が如何に自由すぎてとりとめのない表現であるかが示されているが、だからといって全てを写真のジャンルに取り込んでしまう昨今の傾向は軽率すぎる。そういった写真ばかり目立ってしまって、"写真"をやろうとしている人たちが見えなくなってしまうからだ。


その点、大橋仁は写真作家である。処女作「めのまえのつづき」では実の父の自殺未遂をきっかけに始まった写真群が連なり、それと同時に恋人との関係性が綴られていた。人が自らを形成する上で最もプリミティブな存在であるはずの親が自殺を図るという、このどうしようもない哀しみは彼のアイデンティティをひどく傷つけたことだろう。あまりに近すぎる存在からのあまりに突然な死の香りは、彼に本能的に性を欲させた。恋人の肉体が度々登場するのはそのためだろう。性がここまで悲しく描かれた写真は、あまりない。

だが冒頭で氏自身がスターウォーズのライトセーバーの様なものをあたかも侍のようにふりまわす様は、それから始まる過酷な物語に対する未練への決別の約束のようにも感じられたし、だからとてもバランスがいい。ラストでカラオケのマイクをもち、顔を歪ませながら熱唱する氏の写真もまた同様である。若さ故の独特のパワーと前向きな姿勢、そして真っ直ぐな愛が感じられた。

写真集のラストにて奇跡的に助かった父親の車椅子姿が見れるが、そこで父親は空に向かって双眼鏡を覗いている。まるでこれからの人生を模索するかのようにも捉えられるこの姿は、自殺未遂というあまりに悲しい出来事とは対照的な希望が感じられた。


1作目が「死と再生」であるならば、2作目の写真集「いま」はどうだったのかと言うと、「生と性」である。今度は妊婦の出産の過程をドキュメンタリーすることで、一作目からの続きを描いてくれた。そう、彼の作品は一貫して繫がっている。まあ長くなるので前置きはこのくらいにして、本展において彼はまたしても同様のテーマを持ってきた。今回は「輪廻転生」だろうか。死から生、生から性、そして性から生へ。内容を追うと、以下のような案配である。


まず最初の壁、海。大きな二枚の海が登場する。波はおだやかで、黄金色にそまった海はどこかやさしい。あたたかい。これは母の羊水を感じさせる。海に投影された母胎は写真を孕ませた。次の壁は、アジア圏のどこかの風俗での風景。胸に数字の書かれたバッヂをつけた女たちは男からの指名を待っている。大判にて壁二面にその様子が描かれる。

そして最後の壁では、おそらくそこで彼が指名した女性との対峙が待ちかまえている。だがここだけ彼は小さな写真を幾枚も展示する手法をとっていた。女の顔のアップ、野良犬、さまざまな女の下着姿。これらが、一見無造作なようでいて因果律を予感させるようにブロック状で配置されていた。ここで違和感を感じたのは、女の全身ポートレートに限ってはさまざまな女であるのに対して、顔のアップでは同じ女性ばかりであるということ。おそらく彼はアジア圏のさまざまな国々の幾多の風俗に通い、幾多の風俗嬢を撮ったのだろう。だが、顔のアップだけはお気に入りの子であったにちがいない。全身ポートレートの女性たちの笑顔がまだ固く、つくろっているのに対してアップの女性の表情はどこかやさしく、ゆるい。

実際に彼がその子と寝たのかどうかはわからない。だが、その関係性がなければ到底結びつかないようなおだやかな表情をしている。最初の海とどこか、つながるような表情である。つまり、母性というキーワードでこの二つはつながっている。そこが他の風俗嬢の写真との差別化を図っていた。そしてそれら、女性たちの写真を区切るかのように配置された野良犬の写真。これがまた多くの犬を顔の前からアップで撮ったものだった。彼らは大橋仁氏自身の男性としての象徴である。野良犬は野生であり、野生とは本能。犬は男性器としてこの写真群に取り入れられていた。そうして双方でカメラを向く女と犬。氏を間に挟みながら写真機によって結びつけられたその間接的な性交渉は、反芻的に永続的に行われていた。生の営みがそこには確かに在った。


海が象徴する母胎、そして風俗嬢と野良犬が象徴する性。ここから感じられるのは、あまりにも生々しく温度の通った生命の誕生である。生命が生まれ出るその関係性、因果律。宇宙そのものを象徴していると言っても良いかも知れない。この展示によって、彼が今までがむしゃらに追いかけ続けてきた「生と性と死」は輪廻転生を迎え、一段落が着いたのではないだろうか。とても良い展示であった。


ラストの展示。田中功起。批評に値しないのでスルー。


結論として、「スティル/アライブ」というテーマに対する懐疑心を拭うことは難しいこの展示ではあるが、大橋仁氏の作品は興味深かった。この展示を担当した学芸員の話を読むと、初めからテーマありきの展示ではなく、同世代の作家たちの中で注目の四人を選んでからのテーマ決めだったようで、なるほど納得、といったところだろうか。この手のコンセプト性の強いテーマ展を展開するには未だ至らない力不足さをここ日本では痛感する。


日本の新進作家 vol.6 スティル/アライヴ

■会 期:2007年12月22日(土)→2008年2月20日(水)
※2007年12月28日(金) 10:00〜18:00
※2008年1月2日(水)〜4日(金)年始特別開館 11:00〜18:00
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:東京都写真美術館 2階展示室
■料 金:一般 700(560)円/学生 600(480)円/中高生・65歳以上 500(400)円
※1月2日(水)は無料
※( )は20名以上団体および東京都写真美術館友の会、上記カード会員割引
※小学生以下および障害者手帳をお持ちの方とその介護者は無料
※第3水曜日は65歳以上無料

■Period:December 22,2007 → February 20,2008
■Closed Day:Monday (Tuesday if Monday is a national holiday)
■Venue:Exhibition Gallery, 2F
■Admission:Adults ¥700(560)/College Students ¥600(480)/High School and Junior Hight School Students, Over 65 ¥500(400)
※Admission is free of charge on January 2. ※ The figure in parentheses refers to a group discount rate applicable to groups of 20 people or more and a discount rate applicable to members of the Tokyo Metropolitan Museum of Photography. ※Admission is free of charge for primary school students & younger children, disabled persons and their caretakers.※Admission is free of charge for persons aged 65 or older on the third Wednesday of each month.

Nick Zinner Exhibition

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11/23から渋谷《SOCIAL》にて、YEAH YEAH YEAHSというロックバンドのギタリスト・NICK ZINNERの写真展が現在開催されている。正直なところ、『えっ??音楽畑の人が写真展…??』 それがまず、僕の抱いた率直な気持ちであった。


そうでなくてもデジカメの登場やパソコンの普及による、写真に対する敷居の低化はこの数年で顕著な傾向として見られる。誰でも撮れる様になったからこそ、作品の自由さ・可能性はより高まる一方で、やはり総合的な観点から言えば、写真全体のクオリティが低下するのは目に見えた事実だ。そういった近頃の "広がりすぎた写真たち" に辟易していた僕は、『ああ、またこのテイストか・・・』と、ハナからまったく期待していなかった。もはや誰もが気軽に始めることの出来る写真。ともすれば写真家として写真のみを執念のごとく撮り続ける人々だけが出来るような唯一性はなくなったかの様に見え、どんな人でも今日からスキなだけ撮ることができる。しかし、それでは足りないなにかが写真にはあるのだった・・・。


ミュージシャンの撮る写真。それが音楽関係のもの、強いて言うならば自らのライブの様子などやメンバーの写真・・・そういったもので連なり構成されうるであろうことは目に見えて分かっていたし、実際、彼の写真集『I Hope You Are All Happy Now』の中身は"期待を裏切ることなく"、そのテイストのもので構成されていた(もちろんそれ以外にも面白いショットはたくさん載っているけれど)。

が、今回のphoto exhibition。見事にそうした僕の、いやらしい浅はかな予想のウラをかき、かなりのクオリティを見せつけてくれた。彼は"本質的な写真"を撮る・・・"写真作家"だった。


展示枚数は多くもなく少なくもない、総計22枚。一枚一枚の大きさはそれぞれで、小さいものでA4サイズ、大きなものでB2サイズといったところだろうか。『もっと多くても良かったのでは・・・』という声もでる枚数だが、この枚数は展示会場の大きさとも絶妙なフィットを醸しているし、一枚一枚をじっくり鑑賞するという意味では正当派でもある。ぼくは、堂々としていて好きだ。

ちかごろの写真はグラフィティ化の傾向があるから、枚数で勝負する展示が多い。ロモグラフィ然り、荒木経惟、森山大道の写真展然り。"なんでもかんでも張ればいい"といったスタイルには慎重にならなければならない。もちろん、方法論は百人百色であっていいだろうし、クソったれなくらい方法論なんて存在しない写真という表現に定義もクソもない。だが、枚数で勝負することとは、実を言うと『一枚一枚に中身とパワーがないと何も伝わらない』という二律背反を潜在的に持ち合わせている。つまり、ただ表層的な美しさのみを抽出して写真を飾ったところで、それは『写真』ではなく、『イメージ』なのだから。


さて、ぼくはartというものをまともに勉強したことがない浅学非才な人間なので、偉そうなことは言えないし、見事に間違っていて滑稽な見解も多々あることだろう。だがそうした批判を恐れずニック・ジナーの写真を分析するならば、一見して彼の作品からは視覚芸術におけるミニマリズムの影響を多大に受けている感がある。つまり、"断片的な像の露出"こそが今回の写真展のキーとなっており、装飾的・説明的要素を出来うる限りそぎ落としているという点で、ミニマム・アートのひとつとして認識して良いだろう。ここで問題なのは、『ただそれだけでは作家とは呼べない』ということ。では彼の場合、そこをどうクリアしているのだろうか。


ここで注目したいのは、彼の写真からはたしかに"部分的で具体性に欠けている"という印象こそ受けるのだが、だからといって彼の視線が根こそぎ削ぎ落とされているかと言ったら、それは決して違うということである。つまり、部分部分でこそあれ、それらの要素は紛れもなく彼と密接に関係されたパーツであると同時に、彼の眼に写った"撮りたいと感じたものたち"であることが確認できる。そこに彼の作家性は潜んでいた。そしてそれらは、決して自己主張することなく並ぶ。静かに、ただただ人々に受け入れられるのを待ちながら・・・。


YYYs VOCAL, karen Oの影、映画館の赤いシート、暗闇を舞う無数の紙、血のにじんだコンクリートの上で絡み合うコンバースを履いた二本の足下、顔がマイクで隠れたカレンのラジオ収録風景、鼻まで切れた人相の分からない男が服を首まで捲ったところに見えるタトゥー、暗闇で閃光する赤い光・・・そのどれもが、それらの場面を説明するには不足しており、一枚一枚からは具体的ななにかが見えてくることはない。だが、どうだろう。一枚一枚をつなげて見てみると、そこにはたしかにニックの、優しく暖かい目線が残像のように浮かび出てくるではないか。


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こうした流れは、一枚一枚が部分的だからこそ為せる業である。すべてを物語るのではなく、あえて削られた状態で提示されるからこそ、人はそれを見て悩み、考え、自分なりの解釈を行う。そういった意味では彼の今回の写真展は、観る者に考える余地を与えてくれる。と、同時にそれらのパーツパーツは『ニックだからこそ撮り収めることのできたもの』ばかりであるから、それらを構成させると自ずとNICK ZINNERが見えてくる。そんな仕掛けになっている。


自らの色を無くすことなく維持しつつも、見る側に見方を押しつけるのではなく、自由な見方をさせる。そんな、やさしい写真展であった。この写真展は12/2(日)まで開催しているので、ぜひ足を運んで実際に観ていただきたい。


■Nick Zinner Photo Exhibition
“im done with today, looking for something else tomorrow”

at SOCIAL
1-22-5, Shibuya, Shibuya-ku, Tokyo

map ( click to open )

Nick Zinner Photo Exhibition

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写真展"ドイツ写真の現在"、"アウグスト・ザンダー展"

カゼの所為で日曜日から昨日まで外を出られず、せっかくの大型連休を見逃した

うずうずしていた僕は、抗生物質の投与で擬似的に良くなった体を騙しつつ、
竹橋駅は東京国立近代美術館で開催中の写真展へと、足を運ぶ

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